生きる目的が見つからないあなたへ
「自分は何のために生きているのだろう?」
そんなことを考えたことはありませんか。
毎日、仕事をして、ご飯を食べて、眠る。
休日には好きなことをして、また次の日には仕事へ行く。
生活は続いている。
でも、心のどこかに、
「これだけでいいのだろうか」
「自分は何のために生きているのだろう」
という思いが残っている。
人生の目的を探して、本を読んだり、成功している人の話を聞いたり、新しいことを始めたりする人もいるでしょう。
それでも、なかなか答えが見つからないことがあります。
そんなとき、一つの考え方として知ってほしいのが、ジェームズ・アレンの「自己鍛錬」という考え方です。
アレンは、次のような、とても厳しい言葉を残しています。
「人は、自己鍛錬をしない限り、「生きている」とは言えません。
ただ「存在している」に過ぎません。
それはまるで、自分の欲求を満たし、気のおもむくままに動く動物のようです。
自分の価値を貶めていることに気づいていないので、動物のように幸せを感じ、
苦しみから逃れる術を知らないので、動物のように苦しんでいます。」
この言葉だけを読むと、
「そんなに自分を厳しくしなければいけないの?」
と思うかもしれません。
でも、ここでいう自己鍛錬は、自分をいじめることではありません。
むしろ反対です。
自己鍛錬とは、自分の心に振り回されない自由を手に入れること。
そして、その自由を使って、自分の人生を自分で選んでいくことです。
もしかすると、「何のために生きるのか」という問いへの答えは、遠くにある特別な使命ではないのかもしれません。
毎日の小さな選択の中で、自分自身を育てていくこと。
そこに、「生きる」ということの大切な意味があるのではないでしょうか。
「生きている」と「存在している」は、同じではない
アレンは、
「自己鍛錬をしない人は、ただ存在しているだけだ」
という、とても強い表現をしています。
これは、「自己鍛錬をしない人には価値がない」という意味ではありません。
そうではなく、
人間には、自分の心を育て、自分の行動を選ぶ力がある。なのに、その力を使わずに生きているなら、本当の意味で人間らしく生きているとは言えないのではないか
という問いかけだと思います。
たとえば、怒ったから言い返す。
欲しいから買う。
面倒だからやめる。
楽だから逃げる。
嫌いだから相手を責める。
不安だから何もしない。
こうした行動は、決して特別なことではありません。
私たちは誰でも、そうしたくなることがあります。
問題は、そこから先です。
「そうしたい」と思ったとき、
本当に、その通りに行動しなければならないのでしょうか。
ここで一度立ち止まることができます。
「怒っている。でも、今は言わないでおこう」
「楽をしたい。でも、今日は少しだけ頑張ろう」
「逃げたい。でも、本当に逃げる必要があるのか考えてみよう」
この「立ち止まる力」が、人間にはあります。
つまり、
感情があることと、感情の言う通りに行動することは別なのです。
自己鍛錬とは、まさにこの違いを学ぶことです。
自分の心を押さえつけるのではありません。
自分の心を見つめて、
「私は今、どうしたいのだろう」
「でも、本当にそれが自分にとって良いことなのだろうか」
と考える。
そして、自分で行動を選ぶ。
ここに、人間として生きることの始まりがあります。
自己鍛錬とは、自分を苦しめることではなく「自由になること」
「自己鍛錬」という言葉には、少し怖い感じがあります。
厳しい修行をする。
欲しいものを我慢する。
楽しいことを全部やめる。
自分に厳しくする。
そんなイメージを持つかもしれません。
しかし、自己鍛錬を「我慢大会」のように考える必要はありません。
自己鍛錬の目的は、
自分を苦しめることではなく、自分を自由にすること
だからです。
たとえば、怒ったら必ず人にきつい言葉を言ってしまう人がいたとします。
その人は、
「言いたいことを言っているから自由だ」
と思うかもしれません。
でも、本当に自由でしょうか。
怒るたびに言い返してしまうなら、その人は怒りに動かされています。
「怒ったら言い返す」という一つの行動しか選べないからです。
ところが、自己鍛錬によって、
「怒っているけれど、今日は黙っておこう」
「少し時間を置いてから話そう」
「相手の言葉にも理由があるかもしれない」
と考えられるようになったらどうでしょう。
行動の選択肢が増えます。
これが自由です。
同じように、
「やりたくないから、やらない」
だけだった人が、
「やりたくない。でも、大切なことだから少しだけやってみよう」
と選べるようになる。
「欲しいから買う」
だけだった人が、
「欲しい。でも、本当に必要なのか考えてみよう」
と選べるようになる。
「怖いから逃げる」
だけだった人が、
「怖い。でも、一歩だけ進んでみよう」
と選べるようになる。
このように考えると、自己鍛錬は「自分を小さくすること」ではありません。
むしろ、
自分の人生で選べることを増やしていくこと
なのです。
心の中にある怒りや欲望や不安に、自分の人生のハンドルを渡さない。
自分の心を自分で導いていく。
それが自己鍛錬です。
「抑制」から始まって、やがて心そのものが変わっていく
ジェームズ・アレンは、自己鍛錬には三つの段階があると語っています。
一つ目は「抑制」。
二つ目は「浄化」。
三つ目は「放棄」です。
最初の「抑制」は、
「やりたい。でも、やらない」
という段階です。
怒っていても、相手を傷つける言葉を言わない。
食べたいと思っても、必要以上に食べない。
怠けたいと思っても、やるべきことを少しだけやる。
欲しいと思っても、すぐに手に入れようとしない。
これは簡単ではありません。
心の中では、「やりたい」という気持ちが動いています。
それでも、自分で行動を選ぶ。
これが自己鍛錬の第一歩です。
そして、これを繰り返していくと、少しずつ変化が起こります。
今までならすぐに怒っていたことに、
「あれ? 今日はそれほど腹が立たないな」
と思えるようになる。
今までなら欲しくて仕方がなかったものを、
「なくても大丈夫だな」
と思えるようになる。
今までなら逃げていたことに、
「少しやってみよう」
と思えるようになる。
これは、「我慢する力」が強くなっただけではありません。
心そのものが少しずつ変わってきたのです。
これが、アレンのいう「浄化」という考え方につながります。
最初は、欲望を抑えます。
次には、その欲望が以前ほど大きくならなくなります。
そして最後には、
「そもそも、そんなものを求める必要があるのだろうか」
と思えるようになる。
たとえば、
「人に勝ちたい」
と思っていた人が、
「勝つことより、相手と一緒に良くなる方が大切だ」
と思えるようになる。
「自分が正しいと認めさせたい」
と思っていた人が、
「自分にも間違いがあるかもしれない」
と思えるようになる。
「もっともっと欲しい」
と思っていた人が、
「今あるものにも感謝できる」
ようになる。
ここまで来ると、自己鍛錬は単なる我慢ではありません。
心の自由度が高くなっているのです。
自分を苦しめていた欲望から、少しずつ自由になっている。
自分を苦しめていた怒りから、少しずつ自由になっている。
自分を苦しめていた自我から、少しずつ自由になっている。
だから、自己鍛錬は「心を縛るもの」ではなく、
心を解放していく道
と考えることができるのです。
そして、ここに「生きる目的」を考えるための、大きなヒントがあります。
自己鍛錬が進むと、「自分を変える」ことができる
自己鍛錬について考えるとき、大切なのは「自分を無理やり変える」ということではありません。
少しずつ、自分の心の使い方を変えていくことです。
ジェームズ・アレンは、自己鍛錬を「抑制」「浄化」「放棄」という三つの段階で説明しています。
最初の「抑制」では、
「腹が立った。でも、言い返さない」
「欲しい。でも、すぐには買わない」
「楽をしたい。でも、やるべきことを少しやる」
というように、自分の行動を選びます。
その次の「浄化」では、心そのものが変わっていきます。
以前ならすぐに怒っていたことに、あまり腹が立たなくなる。
以前なら人と比べて落ち込んでいたことを、それほど気にしなくなる。
以前なら「自分だけ得をしたい」と思っていたのに、人と分け合うことがうれしくなる。
そして最後の「放棄」では、
「そもそも、そんなものを求める必要はない」
と思えるようになる。
たとえば、
「人より上になりたい」
という思いを抑えていた人が、やがて、
「人と比べる必要はない」
と思えるようになる。
これは、心が弱くなったのではありません。
反対です。
心が強くなったから、必要のないものを手放せるようになったのです。
本当に強い人は、何でも手に入れようとはしません。
何でも言い返そうともしません。
何でも自分の思い通りにしようともしません。
「なくても大丈夫」
「勝たなくても大丈夫」
「認められなくても、自分の価値はなくならない」
と思えること。
そこには、大きな自由があります。
自己鍛錬とは、自分の欲望をどこまでも満たすことではなく、
「欲望がなくても、私は大丈夫」と思える心を育てること
なのかもしれません。
そして、その心の自由が増えるほど、人は他人にも優しくなれます。
一人の心の自由が、やがて社会の自由につながっていく
ここで、自己鍛錬を「自分一人の問題」だけで終わらせず、もっと大きな視点から考えてみましょう。
一人の人が怒りを抑える。
すると、その人から誰かへの攻撃が一つ減ります。
一人の人が欲望を抑える。
すると、誰かから必要以上に奪うことが一つ減ります。
一人の人が自分の間違いを認める。
すると、誰かを責める必要が一つ減ります。
一人の人が相手の話を聞く。
すると、争いが一つ減るかもしれません。
このように考えると、自己鍛錬は決して「自分だけの修行」ではありません。
一人の心の変化が、周りの人の生きやすさにも影響するのです。
もし、自分の欲望だけを満たそうとする人ばかりだったら、社会はどうなるでしょう。
「自分さえよければいい」
「自分が勝てばいい」
「自分が得をすればいい」
という考えが広がれば、人と人との間で争いが増えていきます。
反対に、
「相手のことも考えよう」
「自分にも間違いがあるかもしれない」
「必要以上に奪わないようにしよう」
「みんなで良くなる方法を考えよう」
という人が増えれば、社会は少しずつ変わります。
もちろん、文明や文化が発展する理由は、自己鍛錬だけではありません。
科学の進歩もあります。
技術の進歩もあります。
経済や政治の仕組みも関係しています。
それでも、その土台には、
人間が自分の欲望や感情をある程度コントロールし、他人と協力する力があります。
考えてみれば、学校で学ぶことも、仕事をすることも、法律を守ることも、約束を守ることも、
みんな「自分の好きなようにする」だけでは成り立ちません。
少し待つ。
少し我慢する。
相手の立場を考える。
自分の間違いを認める。
目の前の楽しさより、未来のために努力する。
こうした一人ひとりの小さな自己鍛錬が積み重なって、人間の社会は作られてきました。
だから、自己鍛錬とは、社会から離れて自分だけを高めることではありません。
自分の心を整えることによって、他の人と一緒に生きる力を高めることでもあるのです。
「生きる目的」は、特別な使命ではないのかもしれない
では、ここで最初の問いに戻ってみましょう。
「私は何のために生きるのだろう?」
この問いに対して、すぐに答えが見つからなくても大丈夫です。
大きな夢がなくてもいい。
有名にならなくてもいい。
たくさんのお金を持たなくてもいい。
人からすごいと思われなくてもいい。
もしかすると、
「自分の心を少しずつ成長させていくこと」
そのものが、生きる目的の一つなのかもしれません。
昨日より少しだけ怒りに流されない。
昨日より少しだけ人に優しくする。
昨日より少しだけ自分の欲望をコントロールする。
昨日より少しだけ勇気を出す。
昨日より少しだけ人の話を聞く。
昨日より少しだけ正直になる。
こうした小さな成長には、終わりがありません。
そして、ここに大きな意味があります。
人生の目的を、
「何かを手に入れること」
だけにすると、それを手に入れた後に、
「では、次は何をすればいいのだろう?」
となってしまいます。
しかし、
「自分自身をより良い人間へと育てていく」
ことを目的の一つにすれば、毎日の生活そのものが成長の場所になります。
仕事も、人間関係も、失敗も、苦しみも、学ぶ場所になります。
嫌な人に出会ったとき、
「どうしてこの人は自分を苦しめるのだろう」
と考えるだけではなく、
「この人との関係を通して、自分は何を学べるだろう」
と考えることもできる。
失敗したとき、
「自分はダメな人間だ」
と考えるのではなく、
「次はどうすれば、少し良くできるだろう」
と考える。
苦しいとき、
「なぜ自分だけこんな目に遭うのだろう」
と考えるだけではなく、
「この経験によって、自分はどんな人間になれるだろう」
と考える。
そうすると、人生の見え方が少し変わります。
人生は、「自分が何を得るか」だけではなく、
「自分がどんな人間になっていくか」
という旅にもなるのです。
「ただ存在する」のではなく、「本当に生きる」
もう一度、アレンの言葉を思い出してみましょう。
「人は、自己鍛錬をしない限り、「生きている」とは言えません。
ただ「存在している」に過ぎません。
それはまるで、自分の欲求を満たし、気のおもむくままに動く動物のようです。
自分の価値を貶めていることに気づいていないので、動物のように幸せを感じ、
苦しみから逃れる術を知らないので、動物のように苦しんでいます。」
この言葉は、私たちに、
「もっと頑張れ」
と言っているだけではありません。
むしろ、
「あなたには、自分の心を導く力があります」
と教えてくれているのではないでしょうか。
欲望がある。
怒りがある。
不安がある。
嫉妬することもある。
怠けたい日もある。
それは、人間だからこそ起こることです。
だから、そんな自分を責めすぎる必要はありません。
大切なのは、その気持ちに気づいた後です。
「今、自分は怒っている」
「今、自分は欲しがっている」
「今、自分は逃げたがっている」
と気づく。
そして、
「では、どう行動するか?」
を自分で選ぶ。
その小さな選択が、自己鍛錬の始まりです。
そして、自己鍛錬を続けると、少しずつ心の自由が増えていきます。
怒りに支配されなくなる。
欲望に支配されなくなる。
他人の評価に支配されなくなる。
過去の失敗に支配されなくなる。
「こうでなければならない」という思い込みにも、少しずつ支配されなくなる。
すると、自分の人生を自分で選べるようになっていきます。
これこそが、アレンのいう「生きる」ということなのではないでしょうか。
生きるとは、自分の心を育て、自由を広げていくこと
「何のために生きるのか」。
この問いに、たった一つの正解はないでしょう。
人によって、夢も違います。
仕事も違います。
家族も違います。
大切にしたいものも違います。
だから、「これが人生の目的です」と誰かに決めてもらう必要はありません。
ただ、もし今、
「生きる目的が分からない」
「毎日を何となく過ごしている」
「何のために頑張っているのか分からない」
と感じているなら、一度「自己鍛錬」という視点から自分の人生を見つめてみてください。
自己鍛錬とは、
自分を苦しめることではありません。
自分を嫌いになることでもありません。
欲望や感情をすべてなくすことでもありません。
自分の心に支配されず、自分で自分の行動を選べるようになることです。
最初は「抑制」。
「やりたい。でも、やらない」
という小さな選択から始まります。
次に「浄化」。
「以前ほど、それを求めなくなった」
という心の変化が起こります。
そして「放棄」。
「もう、それを求めなくてもいい」
という自由にたどり着いていきます。
これは、心を縛る道ではありません。
心を自由にする道です。
そして、一人の人間が自由になれば、その人と関わる人にも良い影響が生まれます。
怒りに支配されない人が増えれば、争いが減る。
欲望に支配されない人が増えれば、奪い合いが減る。
自分の間違いを認められる人が増えれば、責め合いが減る。
人の幸せを考えられる人が増えれば、助け合いが増える。
そうやって、一人ひとりの小さな心の成長が、人間関係を変え、社会を変え、
長い時間の中では文化や文明にも影響していくのかもしれません。
だから、自己鍛錬は自分だけのためではありません。
自分の心を育てることは、人間全体の自由を少し広げることでもあるのです。
「存在する」とは、ただ毎日を過ごすこと。
「生きる」とは、自分の心を育て、自分で選び、自分も周りの人も少しずつ自由にしていくこと。
そう考えるなら、
「何のために生きるのか」
という問いに対して、一つの答えが見えてくるのではないでしょうか。
それは、
「自分という人間を、少しずつより良いものへ育てていくため」
です。
今日、怒りを一つ手放す。
今日、欲望を一つ抑える。
今日、誰かに優しい言葉をかける。
今日、逃げたいことに一歩だけ向き合う。
そんな小さなことでも構いません。
その一つ一つが、あなたの心を鍛えています。
そして、その積み重ねによって、あなたは少しずつ、
「自分の人生を自分で生きる人」
になっていきます。
人生の目的は、どこか遠くに隠されているとは限りません。
もしかすると、今日の自分の心を、昨日より少しだけ良くすること。
その小さなところから、人生は始まっているのです。
「ただ存在している」のではなく、
自分の心を育て、
自分の選択を育て、
人とのつながりを育て、
そして、次の人へより良いものを渡していく。
その歩みそのものを、
「生きる」
と呼ぶことができるのではないでしょうか。