ジェームズ・アレンは語ります。
共感を、感傷的で表面的な感情と取り違えてはいけません。
世界で起きている不正や非道に対して怒りを爆発させたところで、その人は浅はかな感情に突き動かされているだけです。
人は、直接の行動によって評価されるのであって、激しい感情を持つことによって評価されるのではありません。
共感から涙が出ることもあるかもしれません。
しかし涙は、汚れた利己心から生じることのほうが多いものです。
真の共感とは、無欲で穏やかな人が見せる、言葉では言い尽くせないほどの深く静かな優しさです。
共感的な人は、感情を急に爆発させたりはせず、つねに自分を抑え、芯が強く、冷静で、気取らず、上品にしています。
幸せな成功のためには共感力を磨く必要があります。ジェームズ・アレンから学べる「真の共感」について書き綴らせて頂きます。
人間と動物を分かつものとは何なのだろう?
幸せな成功者の言葉に触れると時として、自分の幼稚で愚かな恥ずかしい言動を容赦なく指摘されているかのように感じることがあります。私たち人間は共感する能力がなければ、この地上において繁栄を謳歌することは出来ないでしょう。
一個体として人間ほど脆弱(ぜいじゃく)な生物体は存在しないのではないでしょうか。多くの生物体は生まれ落ちたその日のうちに、自ら立ち上がり、歩くことを可能にします。一方、人間は単純に自分の力で立ち上がるまでにどれだけの時間を掛けることでしょう。
二足歩行と四足歩行の違いとか、進化の過程における発達させた脳の違いとか、そうしたことは、ひとまず脇において下さい。
なぜ、生まれ落ちた時から、成長した大人になった今に至るまで、ひ弱な皮膚に包まれた、動物としては極めて弱々しさだけが目立つ肉体で、生きていけるのか・・・それを考えてみた時、はるか大昔から積み重ねられ続けた人類の営みの大きさに感嘆せずにはいられないよな、としみじみ想うことがあります。
火の使用から始まり、共同体の構築、その中でのルールを定め、違う共同体で互いに争うことがあっても、また新しい秩序を構築する・・・。
あらゆる文化にあらゆる文明、数々の思想に数々の発明、それでいて過去・現在・未来を越えて、洋の東西を問わず、一本貫かれた何かがあるこの世界と、そこに生きる人間・・・。
人間と動物を分かつものとは結局のところは何だろう、と考えることもあります。
そうすると、やはり「精神」であったり「心」というものに私は行き着きます。
精神や心も脳の作用!?
精神も心も脳の作用にしか過ぎないと言う方もいます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
もし、人間の心や精神というものが、ただ単純に脳の作用によってのみ生じるとするのならば、各人の脳の形状から目立った変化が見受けられるのではないでしょうか。なぜなら、それぞれの人の持つ感性や性格の違いを目の当たりにすると、「同じ人間か?」と思うことが多々あるからです。
そして、もはや見ることも共に語ることも出来ない、ただ伝え聞くことしか出来ない方々の言葉に、ある時は慰められ、ある時は励まされ、そして、ある時は叱られるように感じる、この揺さぶりは、本当に脳の作用にのみ、その要因があると言えるのでしょうか。
私は違うと思います。
確かに、脳死状態の方に、何を語っても何の反応もないというのは、その通りでしょう。しかし、反応が確認されないからといって、そこには何も存在しないというのは浅はかな気がします。
万有引力の法則はニュートンが数式で示し、我々が一般認識として確認できる、その前から確かに働いていました。
つまり、今、現在、生きている我々が認識できている力や法則ではないが、今、現在も確かに我々に働いている力や法則があり得るのは当然であり、その力や法則に基づく存在形態、あるいは運動形式もまたあり得るとするのが、むしろ科学的思考であると言えるのではないでしょうか。
共感をはき違える人の姿
さて、人間の持つ「精神」や「心」の持つ力の中で、幸せな成功に至るために必要なものの一つに「共感力」があると思います。
苦しみや痛みに共感できる人が、他者の苦しみや痛みを癒し、克服する術を人類にもたらす人です。
喜びや楽しみに共感できる人が、他者に喜びや楽しみを提供し、人に笑顔をもたらすことができます。
しかし、この共感する力は往々にして感傷的な気分や表面的な喜怒哀楽とはき違えやすい面があります。
映画や小説で涙を流し、心が洗われたと思っても、一日も経てば、その感動もどこへやら、つまらない思考や行動にふける自分がいる、というのが実際のところです。
ニュースで取り沙汰された悪行に憤慨し、近しい人とその感情の高ぶりを共有したかと思えば、ニュースになるほどのものではなくても、本質的には同じことをやっている自分がいる、というのも実際のところです。
感傷的な気分や表面的な喜怒哀楽というものは、人間だからこそ持つ「精神」や「心」の持つ力というよりは、むしろ、人間の持つ動物性により近いものなのかもしれません。つまり、動物が人間と同じように知識や言葉を駆使し始めたとして、その初期の頃に観察される姿に似ているのが、感傷的な気分や表面的な喜怒哀楽の姿ではないか、ということです。
真の共感とは~深く静かで穏やかな、幸せな成功者の姿
ジェームズ・アレンは語ります。
共感を、感傷的で表面的な感情と取り違えてはいけません。
世界で起きている不正や非道に対して怒りを爆発させたところで、その人は浅はかな感情に突き動かされているだけです。
人は、直接の行動によって評価されるのであって、激しい感情を持つことによって評価されるのではありません。
共感から涙が出ることもあるかもしれません。
しかし涙は、汚れた利己心から生じることのほうが多いものです。
真の共感とは、無欲で穏やかな人が見せる、言葉では言い尽くせないほどの深く静かな優しさです。
共感的な人は、感情を急に爆発させたりはせず、つねに自分を抑え、芯が強く、冷静で、気取らず、上品にしています。
幸せな成功者が発揮する真の共感とは、深く静かで穏やかなものです。
卒業式で級友と涙を流して抱き合いながら感傷と気分に浸る子供たちを、静かに微笑みながら見守る大人のように、落ち着いた態度の中にこそ、幸せな成功者は共感力を発揮しています。
彼らは、他者の喜びを自らの喜びとしつつ、他者の苦しみを自らの苦しみとしつつも、感情をあらわにすることではなく、自らの仕事や、直接の行動によって奥ゆかしい思いやりを示します。
彼らは人の持つ激情や感情がうまくコントロールされない状態のままだと、自分や周囲の人間を巻き込み、ひどい苦痛をもたらすことを知っています。そして、激情や感情の持つ圧倒的な力を和らげ、整え、賢く方向づけて、共感力として利用する術を学んでいます。
文明の発展は、人の精神の成熟を求めるという「原因と結果の法則」
「世界で起きている不正や非道に対して怒りを爆発させたところで、その人は浅はかな感情に突き動かされているだけ」・・・なんと、耳が痛く、容赦のない、しかしながら、深い洞察に満ちた指摘でしょうか。
インターネットの普及で個人が自由に意見や見解を表明することが可能になった現代だからこそ、こうしたメッセージに耳を傾けることの重要性が増してくると感じています。
産業革命の過程による文明の進化の副産物として、工場排水などの環境汚染と水俣病などの公害の問題を、すでに私たちは経験しています。知識・情報産業の隆盛による、「情報汚染」「情報公害」と呼んでもいいものが、広く一般的に問題視される時代が来ることになるのは、歴史に学ぶことができる人間にとっては、自明のことです。
どうか、これからの時代を切り拓こうとしている方々にありましては、浅はかな感情に基づく情報配信で、注目を集め、お金を得るという、誘惑に打ち勝って頂きたいと強く願います。
「人は、直接の行動によって評価されるのであって、激しい感情を持つことによって評価されるのではない」とは、激しい感情を持つことを否定しているのではなく、それをどのような形で個々人の人生において表現するのか、を問うています。
激しい感情の表現として、殺人・暴行が罪として裁かれるのと同様に、激しい感情の表現としての誹謗・中傷・罵詈雑言(ばりぞうごん)を、「台本のあるお笑い」、「脚本に基づく演劇」、「プロレスの中のパフォーマンス」と同じようなものだなどと、もっともらしい理屈をつけて正当化するのはやめるべきでしょう。
かつて公害をもたらした工場を持つ、当時の事業家・経営者といえ、排水の問題を大きなものとして考えなかったことでしょう。個々人の人柄や仕事に取り組む姿勢などでは、尊敬に値する方々であったかもしれません。そうした方々が、もし直接、病気に苦しむ人と相まみえた時、どれ程までの衝撃を受けることになるでしょうか。直視することが出来ず、おそらく、「みんな、やっていたこと」「私だけが責められる筋合いはない」と言う方々が、多いと思うのです。
文明の発展は、人の精神の成熟を求めます。
精神の成熟が追い付かない文明の発展は、多くの人を苦痛に巻き込みながら、滅びに至ります。「温故知新(おんこちしん)」、“故(ふる)きを温めて新しきを知る”とも言いますが、教科書レベルで学べる知識であっても、私たちは、それを知ることが出来るはずです。
この世界で起きる全ての事象の因果関係を正確に知ることは出来ないながらも、文明の発展とそこに生きる人々の精神の成熟の間にも、「原因と結果の法則」が常に働いていることは、自明かと思えます。
私たちは、自身の幸せな成功のためにも、幸せな成功者が示す真の共感は、激情や感情の持つ圧倒的な力を和らげ、整え、賢く方向づける、深い洞察力と自己鍛錬を背景としていることを、知っておいた方がいいと思うのです。
まとめ
私、名隠愛生は、個々人の幸せな成功のために必要なのは、この世界で起きる全ての事象の因果関係を完全に把握することではなく、「原因と結果の法則」の働きをあらゆる存在、現象から学び取ろうとする過程で磨かれる洞察力であり、真の共感力であると思うのです。
幼稚で愚かな感情のままの言動がある間は、まだまだ真の共感力を発揮できるものではないと、自戒しつつ、幸せな成功者の姿に謙虚に学び続けたいと考えます。
お読みいただき、ありがとうございました。
引用元:
ジェームズ・アレン著「ジェームズ・アレン全一冊」(2015年「株式会社KADOKAWA」発行)p.244