生涯現役で幸せな成功者になろうとしている私にとって、あらゆる経験や人物から謙虚に学び続ける姿勢が大事になると考えています。
それは、過去に知識として学んだことを実生活における経験を通して、自分自身の人生における知恵にまで高める道でもあります。
西郷隆盛の「敬天愛人」という思想を少しだけ深めることができたお話です。
コンビニでふと思い浮かんだ西郷隆盛の名言
コンビニで買い物をしていた時のことです。中年女性の店員さんの声が尊敬に値する人の声に似ていました。
「いらっしゃいませ、おはようございます」とエントランスの開く音が店内に鳴る度に、大きすぎず、小さすぎず、丁度いい音量の声で挨拶をしてくれます。
業務としての機械的なものかもしれませんが、その声から尊敬に値する人を思い出した私には、考えるものがありました。
「この人も、尊敬できるあの人と同じような志を持っている人かもしれないな。この仕事が終わった後、コツコツと何か別のことを積み重ねている人かもしれない。内心、今の仕事はツナギだと考えているかもしれない。でも、やるからには、一生懸命、ハキハキ、テキパキやろうと心に決めているのかもしれないな。」
こんなことを考えました。
そして、なぜか、西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉が思い浮かんだのです。
「天を敬い、人を愛する」なぜ、この言葉が思い出されたのでしょうか。
私は、このコンビニの店員さんに「どこで、どんな志を持って生きている人がいるかは分からない。だからこそ、どんな人に対しても敬意を持って接しなければいけない」ということを強く感じたのです。
どんな人にも丁寧に接しよう!!
普段から私はレジの清算が終わった時には「ありがとうございます」と言っています。「レシートをお願いできますか」と丁寧な言葉遣いを心掛けています。いい人アピールではありませんよ(笑)
若い頃、あるリサイクルショップにてアルバイトをしていた経験が私にはありまして、その時に、横柄な態度のお客さんに辟易したことがあるのです。
清算後、お釣りを渡す時に、お店のお決まりの挨拶(それは広告ではありますが)をすると、「そんなのはいいから、早くして」と刺々しい言葉をぶつけてくるなど、とにかく、何かにつけて喧嘩を売りたくって仕方がないといった雰囲気のお客さんには本当に疲弊(ひへい)させられました(笑)
お客の立場だからといって、どんな態度でも、何を言っても、許されて当然であるという感覚は本当に理解できないですし、嫌なものだなとしみじみ思いました。
それ以来、私は出来るだけ、意識して、店員さんに「ありがとうございます」「ごちそうさまでした」など丁寧に接することを心掛けるようになりました。
単純に、それは自分がされて嫌だったことを他の人にはしないということではあったのですが、年を取ると、そうした自分に誇りを持てると同時に、もっと違う意味を見出すことにもなりました。
それが、「どこに、どんな素晴らしい人が潜んでいるか、それは分からない」というものです。
「敬天愛人」の意味と謙虚に学び続ける姿勢
西郷隆盛は明治維新の立役者の一人で、彼について語る時、彼の「敬天愛人」という名言を抜きに語ることは出来ません。
「天を敬(うやま)い、人を愛する」と読みますが、激動の時代にあって、西郷隆盛が自らの志を貫くため、また、人を率いる者としての心構えとして、自分自身をいかに高めていくかという自己修養の指針として定めたものである、と私は解釈しています。
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
(現代語訳)
「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」(西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より抜粋)
「天」というものを、「神」と呼ぼうと、「仏」と呼ぼうと、あるいは「キリスト」と呼ぼうと、「アッラー」と呼ぼうと、はたまた「自然」と呼ぼうと、「宇宙」と呼ぼうと構わないのですが、私たちはこうした大いなる存在に対する畏敬の念を忘れてはいけません。
共に生きる同じ人間に対してひどい言動を取る時とはどんな時でしょうか。
自分自身を振り返ってみても思うのですが、一言で言えば、調子に乗っているから(笑)、です。
つまり、傲慢になっている時であり、ありとあらゆる存在を生かし育むこの広大な世界の不思議さを忘れているからです。
大いなる存在に対する畏敬の念があればこそ、人は同じ人間に対する思いやり、慈しみ、つまりが「愛」というものの価値を知り、それが、今現在において当然のことのように語られる人権の尊重という社会通念に繋がっています。
はっきり言えば、大いなる存在に対する畏敬の念を持たない人が人権の尊重を語っていたとしても、それは本心からではなく、ただの表層的な言葉にしか過ぎないと見ていいでしょう。
私は西郷隆盛のような偉大な人格者にはとうてい及ぶものではありませんが、生涯現役で幸せな成功者になるにあたり、彼の「敬天愛人」という精神から、あらゆる人間や経験から謙虚に学び続ける姿勢を貫きたいと思いました。
「どこに、どんな素晴らしい人が潜んでいるか、それは分からない」それは天のみぞ知ることです。
私は大いなる存在の不思議さに畏敬の念を持っていることの証を、「どんな人に対しても敬意を持って接する」ことで、この世界に示したいと考えます。
そうすることで、何歳になっても自分自身を高める意欲が続き、活き活きと生きることができると思いますし、若い人からも、いい意味で親しみを覚えられ、仲良くできるような気がするのです。
お読み頂きありがとうございました。