今、苦しみの中にいるでしょうか。
何をしてもうまくいかない。
人間関係がつらい。
お金のことで悩んでいる。
仕事が苦しい。
病気や体の不調が心配だ。
過去のことを何度も思い出してしまう。
「どうして自分ばかり、こんな目に遭うのだろう」と思っているかもしれません。
苦難の中にいると、心はどうしても苦しさに向かいます。
朝起きても苦しい。
仕事をしていても苦しい。
夜になっても苦しい。
そして、苦しいからこそ、その苦しみについて何度も考えてしまいます。
すると、いつの間にか人生のすべてが「苦しみ」を中心に回っているように感じられてきます。
そんなとき、ジェームズ・アレンは、とても厳しい言葉を私たちに投げかけます。
「もしあなたが困難を抱えているとしたら、それはどこでもないあなた自身の心のなかにあるのです。
それは自身が作り上げているのであって、誰かが作っているのではありません。
それはあなたの務めでも、外部のものでもありません。
あなた自身が困難の作り手であり、あなたが生みの親なのです。
すべての困難を、学びのための教訓として、魂の成長のための助けとして捉えましょう。
そうすれば、もはや困難はなくなるでしょう。
これが楽園へと続く道の一つなのです。」
この言葉を読んで、
「苦しんでいるのは自分が悪いということなのか」
と思った人もいるでしょう。
しかし、ここで言う「困難はあなたの心の中にある」という言葉は、
苦難の原因をすべて自分のせいにして、自分を責めなさいという意味ではありません。
むしろ、この言葉には、苦難の中にいる人へ向けた一つの希望があります。
それは、
「困難の中にいても、あなたの心まで困難に支配されなくていい」
という希望です。
では、この言葉を、苦難の中にいる私たちはどのように受け取ればよいのでしょうか。
苦難そのものと、苦難に心を縛られることは違う
まず、大切なことがあります。
人生には、自分の力だけでは変えられない苦難があります。
突然の病気。
失業。
お金の問題。
家族の問題。
人間関係のトラブル。
大切な人との別れ。
事故や災害。
このような出来事を、「全部あなた自身が作ったのです」と単純に考えることはできません。
自分が望んでいないことでも、人生には起こります。
ですから、ジェームズ・アレンの言葉を理解するときには、
「外側で起きている出来事」と「その出来事によって心がどうなっているか」
を分けて考える必要があります。
苦難そのものは、すぐには変えられないかもしれません。
しかし、その苦難について、
「もう自分には何もできない」
「この先もずっと苦しいに違いない」
「自分の人生は終わった」
と考え続けることまで、外側の出来事に決められているわけではありません。
ここに、アレンの言葉の大切な部分があります。
私たちは、困難そのものをすぐに消せなくても、困難に対する自分の心の向きを見直すことができます。
これは小さな違いに見えるかもしれません。
でも、実はとても大きな違いです。
「困難を握りしめる」とは、苦しみだけを見続けること
苦難の中にいるとき、私たちは無意識のうちに苦しみを握りしめてしまうことがあります。
もちろん、「苦しみたい」と思っているわけではありません。
むしろ、苦しみから自由になりたいと思っているはずです。
それでも、
「あの人が悪い」
「どうしてこんなことになったのか」
「なぜ自分だけなのか」
「あのとき、こうしていれば」
「この苦しみがなくならない限り、幸せにはなれない」
と、何度も同じことを考えてしまいます。
そうしているうちに、心が苦しみから離れられなくなります。
外側に困難があるだけだったのに、心の中にも困難が広がっていきます。
つまり、
困難があることと、困難を心の中で握りしめ続けることは同じではない
のです。
たとえば、誰かに傷つけられたとします。
傷ついたことは事実です。
その悲しみを感じることも自然です。
けれども、その出来事を何度も心の中で繰り返し、
「私はあの人に傷つけられた人間だ」
という思いを持ち続けるなら、その出来事は過去に起きた一つのことではなく、今も心を苦しめるものになります。
過去の出来事が変わらなくても、現在の心がその出来事に縛られ続ける必要はありません。
ここで、アレンの厳しい言葉が出てきます。
「あなた自身が困難の作り手であり、あなたが生みの親なのです。」
この言葉は、
「あなたが悪い」
と言っているのではないのだと思います。
むしろ、
「あなたの心の中に、まだ自分で選べる部分があります」
と伝えているのではないでしょうか。
もし本当にすべてが外側の力で決められているなら、私たちは何もできません。
しかし、自分の心の中に困難を作り続けている部分があるのなら、
その心の働きに気づき、少しずつ変えていくこともできます。
そこに希望があります。
厳しい一言が、心を苦難から引き離す
苦しんでいる人に対して、
「もっと前向きになりましょう」
と言うだけでは、心に届かないことがあります。
苦しみの真ん中にいる人は、前向きになれない自分を責めてしまうかもしれません。
「頑張らなければ」
「弱音を吐いてはいけない」
「もっと強くならなければ」
と、さらに自分を追い込んでしまうこともあります。
だからこそ、ときには別の言葉が必要なのです。
アレンの、
「あなた自身が困難の作り手であり、あなたが生みの親なのです。」
という言葉は、そういう意味で、禅の「一転語」のような働きを持つ言葉として読むことができます。
一転語とは、心の向きを一気に転じるような言葉、と考えることができます。
ずっと外側を見ていた人に、
「自分の心を見てみなさい」
と促す。
「どうすれば困難をなくせるだろう」
と考えていた人に、
「そもそも、あなたの心は今、困難を握りしめ続けていないだろうか」
と問いかける。
この問いによって、心の向きが少し変わります。
今まで、
「困難を見る自分」
だったものが、
「困難を見ている自分の心を見る自分」
へと変わるのです。
ここには、大きな違いがあります。
苦しみそのものを見るだけなら、苦しみと自分が一つになってしまいます。
しかし、自分の心が苦しみに向かっていることに気づけば、
「私は今、苦しみを見ている」
と、一歩離れて見ることができます。
その一歩が、自由への入り口になるのです。
心の主導権を、苦しみから自分自身へ取り戻す
苦難の中にいると、心の主導権を苦しみに渡してしまうことがあります。
苦しみが考えます。
苦しみが未来を決めます。
苦しみが自分の価値を決めます。
苦しみが「もう無理だ」と言います。
そして、その声を自分自身の声だと思ってしまいます。
しかし、本当は違います。
「苦しい」という感情があることと、
「苦しいから、これからも苦しみ続けなければならない」
ということは別です。
「怖い」と感じることと、
「怖いから何も選べない」
ということも別です。
「失敗した」という事実と、
「失敗したから、自分には価値がない」
という判断も別です。
私たちは、感情や出来事そのものをすぐに消せなくても、その後、自分が何を選ぶのかに関わることができます。
だから、苦難の中で大切なのは、
「どうすれば今すぐ苦しみを全部なくせるか」
だけではありません。
むしろ、
「私は、この苦しみに自分の心の主導権を渡し続けるのか?」
と問いかけることです。
心の主導権を取り戻すとは、無理に明るくなることではありません。
泣いてもいい。
悲しんでもいい。
つらいと言ってもいい。
助けを求めてもいい。
そのうえで、
「それでも、私の心の向きを決めるのは私自身だ」
と、少しずつ自分の場所へ戻ってくることです。
これこそが、アレンの言葉が苦難の中にいる人へ与えてくれる、一つの大きな力なのではないでしょうか。
困難を「学び」に変えると、心の向きが変わる
ここまで読んで、
「では、苦難の中で心をどこへ向ければいいのだろう?」
と思われるかもしれません。
その答えが、アレンの次の言葉にあります。
「すべての困難を、学びのための教訓として、魂の成長のための助けとして捉えましょう。」
これは、
「苦しいことも、無理に良いことだと思いなさい」
という意味ではないでしょう。
苦しいものは、苦しい。
悲しいものは、悲しい。
つらいときには、つらいと感じていいのです。
大切なのは、その苦しみだけを見続けないことです。
そこで、心の向きを少し変えてみます。
「なぜ自分はこんな目に遭ったのだろう?」
だけではなく、
「この経験から、自分は何を学べるだろう?」
と問いかけるのです。
人間関係で苦しんでいるなら、
「私は人とどう接したいのだろう?」
と考えてみる。
失敗して苦しんでいるなら、
「次は何を変えられるだろう?」
と考えてみる。
貧しさの中にいるなら、
「この経験を通して、私は何を大切にしたいのだろう?」
と考えてみる。
思い通りにならない人生の中で、
「それでも、私はどんな人間として生きたいのだろう?」
と考えてみる。
すると、困難の意味が少しずつ変わってきます。
困難は、自分を苦しめるだけの敵ではなくなります。
自分の弱さを教えてくれるもの。
忍耐を教えてくれるもの。
勇気を育ててくれるもの。
人の痛みを理解する力を与えてくれるもの。
本当に大切なものを教えてくれるもの。
そして、自分自身を深く知るためのもの。
そう考えることができるようになります。
外側の困難を変えられなくても、心の向きは選べる
人生には、どうしても自分では変えられないことがあります。
他人の考えを変えることはできません。
過去を変えることもできません。
すぐには変えられない環境もあります。
しかし、自分の心の向きまで、すべて外側に決めてもらう必要はありません。
私たちの思考は目に見えません。
それでも、
思考は目に見えない原因であり、行動や人生の状態は、その原因が時間をかけて形になったもの
と考えることができます。
自分の思考や心の状態が、選択・行動・習慣・人間関係などを通して、
少しずつ外側の人生を形づくいていくのです。
もちろん、すべての出来事が思考だけで決まるわけではありません。
しかし、自分の心が自分の選択に影響を与えることはあります。
だからこそ、
「どうせ何をしても無駄だ」
という思いだけに心を預けるのではなく、
「今、自分にできることは何だろう」
と考える。
「私はどんな人間でありたいだろう」
と考える。
「今日、どんな小さな一歩を選べるだろう」
と考える。
そうすることで、心の向きが少しずつ変わります。
そして、心の向きが変われば、行動も変わります。
内側の思考が外側の行動を生み、その行動がまた外側の環境をつくり、
それが心に影響するという循環があります。
だから、苦難の中では、まず心の向きを変える小さな一歩が大切なのです。
「困難の中にあっても、困難そのものにならない」
苦難の中にいると、
「私は不幸な人間だ」
「私は苦しんでいる人間だ」
と、自分自身と困難を一つにしてしまうことがあります。
しかし、あなたは「困難そのもの」ではありません。
困難を経験している一人の人間です。
失敗を経験している一人の人間です。
悲しみを感じている一人の人間です。
今は苦しいとしても、あなたのすべてが苦しみなのではありません。
ここを忘れないことが大切です。
外側の出来事が、自分自身を知るための鏡になることがあります。
「この出来事によって、自分の中の何が見えてきたのだろう?」
と考えてみる。
怒りが見えたなら、自分の怒りを見る。
恐れが見えたなら、自分の恐れを見る。
執着が見えたなら、自分の執着を見る。
そして、その先に、
「それでも、私はどう生きたいのか」
という問いを置いてみる。
この問いを持つことで、人生の主導権が少しずつ戻ってきます。
困難が、
「お前はこういう人間だ」
と決めるのではありません。
困難を経験したあなた自身が、
「それでも私は、こういう人間として生きたい」
と選ぶことができるのです。
「困難はなくなる」とは、苦難が消えるという意味ではない
アレンは、
「そうすれば、もはや困難はなくなるでしょう。」
と言っています。
ここも、とても深く考えてみたいところです。
人生から、すべての問題が消えるという意味ではないでしょう。
生きている限り、思い通りにならないことはあります。
失敗することもあります。
別れもあります。
悲しみもあります。
老いもあります。
人生には、自分の力だけではどうにもならないものがあります。
それでも、「困難に心を支配される」という意味での困難は、変わっていくかもしれません。
以前は、
「こんなことが起きた。だから私は不幸だ」
と思っていた。
しかし今は、
「こんなことが起きた。それでも私はどう生きようか」
と考える。
以前は、
「この問題がなくならないと、私は幸せになれない」
と思っていた。
しかし今は、
「問題を抱えたままでも、今日できることを一つ選ぼう」
と思える。
この違いは、とても大きいものです。
困難が消えたのではありません。
困難と自分との関係が変わったのです。
そのとき、困難は自分を閉じ込める牢屋ではなくなります。
自分を成長させる学びの場になる。
自分自身を知る鏡になる。
そして、自分の心の主導権を取り戻すきっかけにもなる。
だからアレンは、
「これが楽園へと続く道の一つなのです。」
と言ったのではないでしょうか。
苦難の中でも「自分はどう生きるか」を選ぶ
ここまで考えると、アレンの言葉は、決して苦しんでいる人を責める言葉ではないことが見えてきます。
むしろ反対です。
「あなたには、まだ選べるものがある」
と伝えているのです。
苦難によって、すべてを失ったように感じることがあります。
でも、自分の心の向きまで失ったわけではありません。
今日一日、何を考えるのか。
何に心を向けるのか。
誰にどんな言葉をかけるのか。
目の前の務めをどう果たすのか。
苦しみの中で、どんな人間でありたいと思うのか。
こうした小さな選択は残されています。
そして、その小さな選択を重ねることが、自分の人生をもう一度、自分の手に戻していくことにつながります。
これは、「頑張って困難に勝ちなさい」という話ではありません。
むしろ、
「もう、苦しみに自分の心のすべてを預けなくてもいい」
という話です。
苦しみを感じながらでもいい。
不安を抱えながらでもいい。
涙を流しながらでもいい。
一歩ずつ、自分の心を自分のところへ戻していけばいいのです。
まとめ 苦難の中で、もう一度あなた自身の人生を生きる
ジェームズ・アレンの、
「あなた自身が困難の作り手であり、あなたが生みの親なのです。」
という言葉は、最初に読むと、とても厳しく感じられます。
「苦しんでいるのは自分のせいなのか」と思うかもしれません。
しかし、ここまで考えてくると、この言葉には別の意味が見えてきます。
それは、
「あなたの人生のすべてを困難に支配させなくていい」
というメッセージです。
困難そのものを、すぐに消すことはできないかもしれません。
けれども、困難を心の中で握りしめ続けるか、それとも少しずつ手をゆるめるか。
苦しみだけを見るのか、それとも苦しみの中から学べるものを見るのか。
過去に心を縛られ続けるのか、それとも今日からどんな人間として生きるかを選ぶのか。
そこには、自分自身の選択があります。
だから、今、苦難の中にいるあなたへ、一つだけ問いかけてみたいのです。
「私は今、困難に心の主導権を渡していないだろうか?」
そして、もしそうだと気づいたなら、自分を責める必要はありません。
その気づきこそが、最初の一歩です。
「苦しい」と感じている自分を、そのまま認める。
そして、
「それでも、私の心の向きを決めるのは私自身だ」
と、静かに思ってみる。
今日すぐに人生を変える必要はありません。
一つの考え方を変える。
一つの言葉を変える。
一つの行動を変える。
その小さなところから始めればいいのです。
苦難の中にあっても、あなたは困難そのものではありません。
苦しみを経験している、かけがえのない一人の人間です。
そして、その心には、苦しみだけではなく、
学ぶ力があります。
選ぶ力があります。
変わる力があります。
善く生きようとする力があります。
だから、苦難の中で立ち止まっているあなたも、まだ人生を選ぶことができます。
困難をなくすことだけを目指さなくてもいい。
まずは、困難に奪われた心の主導権を、自分自身へ取り戻すこと。
そこから、もう一度、自分の人生を自分で生き始めることができます。
アレンの言う「楽園へと続く道」とは、もしかすると、
苦難のない場所へ逃げる道ではないのかもしれません。
苦難の中にあっても、
「私はどう生きるか」
を自分で選べるようになる道。
苦しみに心を明け渡さず、自分自身の心を自分で育てていく道。
その道を歩み始めたとき、同じ人生の中にも、
これまで見えなかった希望が見えてくるのではないでしょうか。
苦難の中にいるからこそ、心の主導権を取り戻す。
その一歩は、何歳からでも始めることができます。
そして、その一歩こそが、あなた自身の人生を、もう一度あなたの手に取り戻す始まりなのです。