「仕事に行きたくない」
「家事が面倒くさい」
「勉強なんてしたくない」
「人のために何かをするのは疲れる」
私たちは、ときどきそんな気持ちになります。
やらなければならないことは分かっている。
でも、楽しくない。
だから、できることならやりたくない。
そして、こう思ってしまいます。
「楽しくないことをしている私は、不幸なのではないか」
「もっと好きなことだけをして生きたい」
「やりたいことを自由にできたら、きっと幸せになれる」
たしかに、好きなことをしている時間は楽しいものです。
遊ぶことも、休むことも、好きなものを食べることも、私たちの人生には必要です。
しかし、ここで一度、立ち止まって考えてみたいことがあります。
「務めと幸福は、本当に対立するものなのだろうか?」
ジェームズ・アレンは、次のように語っています。
「心を制御できていない人にとってはうんざりするような務めも、穏やかで落ち着いた人にとっては喜びとなります。
実際、心穏やかな人生において、「務め」という言葉は新たな意味を持ちます。
それは、幸せと対立するものではなく、むしろ一体となっています。
穏やかな人は、正しいことを求める人であり、務めと喜びを切り離すことはできません。
これらを切り離してしまうのは、快楽を追求する人や刺激を愛する人のすることです。」
この言葉には、「幸せとは何か」という大きな問いが込められています。
アレンが教えているのは、「苦しいことを我慢しなさい」という単純な話ではありません。
もっと深い話です。
それは、
「楽しいことをするから幸せになるのではなく、正しい心で生きることそのものが、深い喜びにつながる」
ということです。
では、なぜ「正しいこと」をすると、私たちは喜びを感じるのでしょうか。
そこには、人間の内側にある「善なる性質」が関係しているのではないでしょうか。
宗教的な言葉を使えば、「神性」や「仏性」と呼ぶこともできます。
名前は何であれ、人間の中には、正直でありたい、人を大切にしたい、約束を守りたい、誰かの役に立ちたいという力があります。
その力に従って生きたとき、私たちは心の奥で、
「これでいい」
「この生き方でいい」
という静かな喜びを感じるのではないでしょうか。
この記事では、「楽しくないから、務めをやりたくない」と感じている人に向けて、この考え方を一緒に見つめていきたいと思います。
「務め=苦しいもの」と決めつけていないだろうか?
私たちは、「務め」という言葉を聞くと、どこか重たい気持ちになることがあります。
仕事。
勉強。
家事。
家族への責任。
約束を守ること。
自分で決めたことを続けること。
どれも「やらなければならないこと」です。
だから、
「自由になりたい」
と思ったとき、「務めから解放されたい」と考えてしまいます。
しかし、アレンは「務めそのものが人を不幸にする」とは言っていません。
むしろ、
同じ務めでも、それに向き合う心によって、感じ方が変わる
と教えているのです。
たとえば、部屋の掃除を考えてみましょう。
「面倒くさい。どうして自分がやらなければいけないんだ」
と思いながら掃除をすれば、掃除は苦痛になります。
でも、
「この場所をきれいにしよう」
「自分が気持ちよく過ごせるようにしよう」
と考えれば、同じ掃除でも意味が変わります。
掃除が終わったとき、
「きれいになって気持ちいい」
という喜びが生まれます。
これは、掃除そのものが急に楽しい遊びになったわけではありません。
自分の心の向きが変わったのです。
仕事でも同じです。
「お金のために仕方なくやっている」
と思えば、仕事はただの苦痛になるかもしれません。
しかし、
「自分の役割をきちんと果たそう」
「誰かの役に立つ仕事をしよう」
と思えば、そこに別の意味が生まれます。
もちろん、どんな仕事でも好きになる必要はありません。
つらい環境なら、環境を変えることも必要です。
それでも、アレンが問いかけているのは、
「目の前の務めに対して、自分はどのような心を持っているだろうか?」
ということなのです。
心が乱れていると、「やるべきこと」まで嫌いになる
アレンは、
「心を制御できていない人」
という表現を使っています。
これは、「感情を持ってはいけない」という意味ではありません。
怒ってもいい。
悲しくてもいい。
疲れてもいい。
「今日はやりたくない」と思ってもいいのです。
大切なのは、その気持ちに自分の人生を全部任せてしまわないことです。
たとえば、仕事で嫌なことがあったとします。
そのとき、
「もう全部嫌だ」
「何をやっても無駄だ」
「どうせ自分なんて」
と考え続けていると、目の前にある小さな仕事まで嫌になってしまいます。
本当は、仕事の一部分が嫌だっただけかもしれません。
ところが、心が乱れると、人生全体が嫌になったように感じます。
怒りが強くなると、普段なら気にならないことまで腹が立ちます。
不安が強くなると、まだ起きていないことまで怖くなります。
欲望が強くなると、「もっと、もっと」と求め続けます。
このように、心が乱れていると、私たちは出来事をそのまま見ることが難しくなります。
だからこそ、心を整えることが大切なのです。
「今、自分は怒っているな」
「今、面倒くさいと思っているな」
「今、楽なほうへ逃げたくなっているな」
と気づく。
そして、
「それでも、自分がやるべきことは何だろう?」
と考える。
これが心を自分で導くということです。
心に感情があることと、感情に支配されることは違います。
穏やかな人とは、何も感じない人ではありません。
いろいろな気持ちを持ちながらも、その気持ちに振り回されず、自分の進む方向を選べる人なのです。
「楽しいこと」と「幸せなこと」は同じではない
ここで、「楽しい」と「幸せ」を分けて考えてみましょう。
たとえば、おいしいお菓子を食べる。
ゲームをする。
好きな動画を見る。
旅行に行く。
これらは楽しいことです。
楽しいことは、私たちの心を明るくしてくれます。
しかし、楽しいことをたくさん集めれば、必ず幸せになれるのでしょうか。
そうとは限りません。
なぜなら、楽しさには終わりがあるからです。
お菓子を食べ終われば、また食べたくなる。
動画を見終われば、次の動画を探す。
欲しいものを買えば、また次のものが欲しくなる。
もっと刺激が欲しくなる。
もっと楽しいことが欲しくなる。
こうして「楽しさ」を追いかけ続けると、心はいつまでも満足できなくなることがあります。
アレンが、
「快楽を追求する人や刺激を愛する人」
について語っているのは、まさにこの部分なのでしょう。
楽しんではいけない、ということではありません。
問題は、
「楽しくないことには価値がない」
と思ってしまうことです。
もしそう考えてしまえば、努力も、責任も、親切も、正直さも、すべて「面倒なもの」になってしまいます。
しかし、本当の幸福には、静かな満足があります。
「今日も自分のやるべきことをやった」
「人に対して誠実でいられた」
「逃げずに向き合えた」
「自分が正しいと思うことを選べた」
そんな気持ちです。
これは、強い刺激による楽しさとは違います。
もっと静かで、長く残る喜びです。
そして、この喜びこそが、アレンのいう「務めと喜びが一体になる」ということなのではないでしょうか。
正しいことをすると、なぜ喜びが生まれるのか
では、ここで最初の問いに戻りましょう。
なぜ、正しい言動には喜びが伴うのでしょうか?
私は、その理由の一つとして、「内側にある善なる性質」を考えることができると思います。
人間の中には、
「正直でありたい」
「人を傷つけたくない」
「困っている人を助けたい」
「約束を守りたい」
「自分のやるべきことをきちんとしたい」
という思いがあります。
もちろん、人間はいつでも善いことを考えられるわけではありません。
怒ることもあります。
嫉妬することもあります。
自分だけ得をしたいと思うこともあります。
楽なほうへ逃げたくなることもあります。
それでも、そうした欲望とは別に、「こう生きたい」という心も存在しています。
それを「良心」と呼んでもいいでしょう。
「善性」と呼んでもいいでしょう。
宗教的な考え方では、「神性」や「仏性」と呼ぶこともできるでしょう。
大切なのは名前ではありません。
人間の内側には、善い方向へ向かおうとする力がある、と考えることです。
そして、正しい行動をしたとき、私たちはその内側の力と行動が一致します。
たとえば、困っている人を見かけたとします。
助けるのは少し面倒かもしれません。
自分の時間も使います。
それでも助けたあと、
「助けてよかった」
と思うことがあります。
誰かに褒められたからではありません。
お金をもらったからでもありません。
自分の中にある「人を大切にしたい」という思いと、自分の行動が一致したからです。
だから、心の奥で喜びが生まれるのではないでしょうか。
正しい行動は、自分を縛るものではありません。
むしろ、本来の自分と調和するための行動なのです。
そして、その調和が「誇り」や「安心」や「静かな喜び」となって表れるのです。
「正しいことをする」は、本来の自分に帰っていくこと
ここまで考えてくると、「正しいことをする」という言葉の意味も、少し変わって見えてきます。
正しいこととは、誰かに命令されたことを、いやいや守ることだけではありません。
もっと深いところでは、
「自分の中にある善なる思いを、実際の行動にすること」
なのではないでしょうか。
「正直でありたい」と思ったら、正直に話す。
「人を大切にしたい」と思ったら、相手を大切にする。
「約束を守りたい」と思ったら、約束を守る。
「努力する人になりたい」と思ったら、今日できる小さな努力をする。
「自分の務めを果たしたい」と思ったら、逃げずに一つずつ取り組む。
こうした小さな行動が、自分の内側にある善性を外へ表していきます。
そして、正しい行動を繰り返すことで、少しずつ自分自身が変わっていきます。
最初は「やりたくない」と思っていたことも、
「やるのが当たり前」
になっていくことがあります。
最初は怒りに負けていた人が、少しずつ怒りを落ち着かせられるようになる。
最初はすぐに逃げていた人が、少しずつ向き合えるようになる。
最初は人の評価ばかり気にしていた人が、自分の良心を大切にできるようになる。
これは、心を押さえつけているのではありません。
自分の中にある、より良い力を育てているのです。
だから、「正しいことをする」というのは、自分を苦しめるための修行ではありません。
本来の自分に少しずつ近づいていく道でもあるのです。
「自分は何をすべきか?」と問い直してみる
では、「楽しくないから、務めをやりたくない」と思ったとき、どうすればいいのでしょうか。
まず、
「やりたくないと思ってはいけない」
と自分を責める必要はありません。
「嫌だな」と思ってもいい。
「面倒だな」と思ってもいい。
「今日は疲れた」と思ってもいい。
その気持ちに気づいたうえで、次の問いを自分に投げかけてみるのです。
「それでも、今の自分にできる正しいことは何だろう?」
これだけで、心の向きが変わることがあります。
「やりたくない」から、
「何をすればいいだろう」
へ。
「面倒くさい」から、
「まず一つだけやってみよう」
へ。
「自分ばかり損をしている」から、
「自分の務めを果たそう」
へ。
これは小さな変化です。
しかし、人間の人格は、このような小さな選択の積み重ねによって作られていきます。
大きな決意だけで人生が変わるのではありません。
今日の小さな選択。
今この瞬間の小さな行動。
そこから人生は変わっていきます。
「正しいことをしたのに、損をした」と感じるとき
ここで、一つ大切なことがあります。
正しいことをしたからといって、いつも良い結果が返ってくるとは限りません。
正直に話したのに、誤解されることがあります。
親切にしたのに、感謝されないことがあります。
努力したのに、評価されないことがあります。
自分の務めを果たしたのに、誰にも気づいてもらえないこともあります。
そんなとき、
「正しく生きても意味がない」
と思いたくなるかもしれません。
でも、ここで「正しい行動」と「外側の結果」を切り離して考える必要があります。
結果は、自分だけでは決められません。
人の反応も、環境も、運も、自分の力だけでは動かせないからです。
けれど、
「自分はどう行動するか」
は、自分で選ぶことができます。
だから、正しいことをする価値を、相手の評価だけで決めないことです。
誰にも見られていないところで正直である。
誰にも褒められなくても、自分の務めを果たす。
誰にも感謝されなくても、できる範囲で親切にする。
そこには、外から与えられるものとは違う「誇り」があります。
それは、
「自分は、自分が正しいと思う道を選んだ」
という誇りです。
この誇りは、人との比較から生まれるものではありません。
だから、他人に負けたときにも消えにくい。
そして、心を穏やかにしてくれます。
「自分を大切にする」とは、楽なことだけを選ぶことではない
今の時代、「自分を大切にしよう」という言葉をよく聞きます。
これは、とても大切な言葉です。
疲れたら休むことも必要です。
つらい環境から離れることも必要です。
自分を傷つける人から距離を取ることも必要です。
何でも我慢すればいいわけではありません。
しかし、「自分を大切にする」ということを、
「自分が楽しいことだけを選ぶ」
と考えてしまうと、少し違ってきます。
本当の意味で自分を大切にするとは、
「自分がより良い人間になっていくために必要なことを、自分にさせてあげること」
でもあるのではないでしょうか。
勉強する。
働く。
片づける。
謝る。
許す。
約束を守る。
怒りを抑える。
誘惑に負けない。
誰かを助ける。
これらは、ときには楽しくありません。
でも、それを行った自分は、あとになって、
「やってよかった」
と思えることがあります。
なぜなら、自分の内側にある善なる性質と調和するからです。
務めの中に、喜びを見つける
アレンが伝えているのは、
「苦しいことを楽しめ」
という無理な話ではないと思います。
むしろ、
「務めを、単なる苦痛だと思わないでください」
というメッセージなのではないでしょうか。
仕事をするとき。
家事をするとき。
勉強するとき。
人との約束を守るとき。
自分を鍛えるとき。
そこには、「自分はどういう人間として生きたいのか」という問いがあります。
「面倒だからやらない」
という選択もできます。
「楽しくないから逃げる」
という選択もできます。
しかし、
「これは自分がやるべきことだ」
と静かに引き受けることもできます。
その選択をしたとき、私たちは自分の中にある善なるものを、行動として表現しています。
だから、そこに喜びが生まれます。
派手な喜びではありません。
大きな刺激でもありません。
誰かに拍手してもらう喜びでもありません。
もっと静かな、
「今日も自分を裏切らなかった」
という喜びです。
これは、人生を長く支えてくれる喜びではないでしょうか。
まとめ
「楽しくないから、務めをやりたくない」
そう感じることは、決して珍しいことではありません。
私たちは誰でも、面倒なことから逃げたくなるときがあります。
しかし、そこで一度、問い直してみたいのです。
「務めと幸福は、本当に対立するのだろうか?」
ジェームズ・アレンは、心が穏やかになると、「務め」という言葉そのものが新しい意味を持つと教えています。
務めは、幸せの敵ではない。
正しい心で取り組むなら、務めそのものが喜びと一つになる。
これは、とても大きな気づきです。
私たちは、「楽しいことを手に入れれば幸せになれる」と考えがちです。
しかし、楽しさは外からやってきて、また消えていきます。
一方で、
「正しいことをした」
「自分の務めを果たした」
「自分の良心を裏切らなかった」
という喜びは、自分の内側から生まれます。
そこには、人間の中にある善なる性質との調和があります。
それを「神性」と呼ぶ人もいるでしょう。
「仏性」と呼ぶ人もいるでしょう。
「良心」や「善性」と呼ぶ人もいるでしょう。
大切なのは、その名前ではありません。
私たちの中には、善い方向へ向かおうとする力があり、その力に従って生きるとき、深い喜びが生まれる。
この可能性を知ることです。
だから、もし今、
「仕事が楽しくない」
「家事が面倒だ」
「努力なんてしたくない」
「やるべきことから逃げたい」
と思っているなら、自分を責める前に、こう問いかけてみてください。
「今の自分にできる、正しいことは何だろう?」
そして、ほんの少しだけ、それをやってみる。
机を片づける。
約束を守る。
一言、素直に謝る。
目の前の仕事を丁寧にする。
誰かに優しくする。
自分で決めたことを一つ実行する。
その小さな行動が、自分の内側にある善なる力とつながっていきます。
そして、いつか気づくかもしれません。
「正しいことをするのは、自分を苦しめることではなかった」
「務めは、幸福の反対ではなかった」
「自分の内側にある善なるものに従って生きること自体が、喜びだった」
と。
幸せとは、いつも笑っていることではありません。
何も苦労しないことでもありません。
欲しいものを全部手に入れることでもありません。
もしかすると、本当の幸せとは、
「自分の心と行動が一つになり、自分の良心に恥じない生き方をしている」
という、静かな安心なのかもしれません。
今日も、やるべきことがあるでしょう。
それを「苦痛」とだけ考えるのではなく、
「これは、自分の中にある善なるものを、行動で表す機会なのかもしれない」
と見てみる。
すると、「務め」という言葉は、少し違って見えてくるはずです。
務めは、幸福の敵ではありません。
正しい心で果たす務めは、幸福へ向かう道にもなるのです。