「もっと人に優しくなりたい」
「正直に生きたい」
「人を責めるのをやめたい」
「怒りや嫉妬に振り回されたくない」
「もっと強く、誠実な人間になりたい」
そう思っているのに、現実の自分は、なかなか思い通りになりません。
腹が立てば、きつい言葉を言ってしまう。
失敗すれば、誰かのせいにしたくなる。
人から嫌われるのが怖くて、本当の気持ちを言えない。
楽なほうへ逃げたくなる。
人の成功を素直に喜べないこともある。
そんな自分に気づいて、
「自分は善い人間になれないのではないか」
「自分には徳がないのではないか」
と落ち込んでしまうこともあるでしょう。
でも、今回ご紹介するジェームズ・アレンの言葉は、そんな人にこそ読んでほしい言葉です。
アレンは、善良な人間になることを、弱くて従順な人間になることだとは考えていません。
むしろ、善く生きるためには強さが必要だと言います。
「人が真に神のようになるためには、まず人として成熟しなくてはなりません。
道徳的強さなくして真の徳はあり得ません。
作り笑い、言い訳、お世辞、不正直さ、偽善といったものは、永久に破壊し、心から追い出さなくてはなりません。
悪は本来、弱く、無力で臆病なものなのです。
それに対し、善は強く、力に満ちた勇敢なものなのです。
人に、善良な人間になれと教えるとき、私は、偏見に縛られない自立した強い人間になれと言います。」
この言葉を読むと、
「善は強い?」
「悪のほうが、ずる賢くて強そうに見えるけれど……」
と思うかもしれません。
しかし、ここでいう「強さ」は、腕力や権力のことではありません。
自分の心を自分で治める力です。
そして、このことを理解すると、「なぜ悪は弱く、善は強いのか」というアレンの言葉が、少しずつ見えてきます。
人間には「楽になりたい自分」と「善く生きたい自分」がいる
私たちの心の中には、いつも一つの思いだけがあるわけではありません。
たとえば、仕事で失敗したとします。
「自分の準備が足りなかったのかもしれない」
と思う自分がいる一方で、
「でも、あの人の説明が悪かったからだ」
と言いたくなる自分もいます。
誰かに嫌なことを言われたときも、
「相手にも事情があったのかもしれない」
と思う自分と、
「絶対に許せない。仕返ししてやりたい」
と思う自分が、同時にいることがあります。
つまり人間には、
「今すぐ楽になりたい自分」
と、
「本当はこういう人間でありたい自分」
が、同時に存在しているのです。
今すぐ楽になりたい自分は、
「逃げたい」
「言い訳したい」
「怒りをぶつけたい」
「自分だけ得をしたい」
と考えます。
これは、とても自然な心の動きです。
だから、そんな気持ちが出てきたからといって、
「自分は悪い人間だ」
と決めつけなくてもいいのです。
大切なのは、その気持ちが出てきた後に、自分が何を選ぶかです。
怒りを感じても、人を傷つけない道を選ぶ。
怖くても、正直に話す。
失敗しても、言い訳をせずに認める。
得をする方法があっても、人をだますことを選ばない。
ここに「意志」があります。
そして、この小さな選択の積み重ねが、人間を成長させていきます。
「悪は弱い」とは、悪い人が弱いという意味ではない
アレンは、
「悪は本来、弱く、無力で臆病なものなのです。」
と言っています。
これは、少し不思議な言葉です。
現実には、悪いことをしている人が強そうに見えることがあります。
人を脅す人。
自分の力を使って人を従わせる人。
うまく嘘をついて、自分だけ得をする人。
人を利用して成功する人。
こうした人を見ると、
「悪のほうが強いのではないか」
と思うこともあります。
しかし、アレンが言っている「弱さ」は、外側の力のことではありません。
心の中の弱さのことだと考えると、分かりやすくなります。
たとえば、自分が失敗したとき、
「私の責任です」
と認めるのには勇気がいります。
一方で、
「あの人が悪い」
「環境が悪かった」
「自分は悪くない」
と言えば、その場では楽になります。
つまり、責任から逃げるほうが簡単なのです。
人に嫌われたくなくて、本心とは違うことを言うのも同じです。
正直に話すには勇気が必要ですが、相手に合わせておけば、その場は丸く収まります。
怒りにまかせて相手を攻撃するのも簡単です。
でも、怒っている自分を落ち着かせるには力がいります。
だから、悪とは「強い力を持ったもの」というより、
恐れや欲望に自分が支配されている状態
と見ることができます。
嘘をつくのも、
「本当のことを言うのが怖い」
からかもしれません。
言い訳するのも、
「自分の失敗を認めるのが怖い」
からかもしれません。
人を攻撃するのも、
「自分が負けるのが怖い」
からかもしれません。
そう考えると、アレンのいう「悪は弱く、無力で臆病」という言葉の意味が見えてきます。
善とは「自分の弱さがなくなること」ではなく、弱さに支配されないこと
では、「善は強い」とは、どういうことでしょうか。
それは、怒らない人になることではありません。
嫉妬しない人になることでもありません。
欲望をまったく持たない人になることでもありません。
人間である以上、さまざまな感情が生まれます。
大切なのは、
その感情に、自分の人生を支配させるかどうかです。
腹が立っても、相手を傷つける言葉を選ばない。
嫉妬しても、その人を引きずり下ろそうとしない。
失敗しても、言い訳をせずに学ぼうとする。
怖くても、誠実であろうとする。
楽をしたくても、やるべきことを一つやる。
これが、道徳的な強さです。
道徳的な強さとは、
「正しいことを知っている力」ではありません。
「正しいと思うことを、実際に選ぶ力」です。
そして、それを何度も繰り返していると、やがてその行動が自分の性質になっていきます。
正直な行動を繰り返せば、正直さが身につく。
人を思いやる行動を繰り返せば、思いやりが身につく。
怒りを抑える練習をすれば、少しずつ心が落ち着いてくる。
このようにして育っていく、善い心の性質が「徳」です。
だからアレンは、
「道徳的強さなくして真の徳はあり得ません。」
と言っているのでしょう。
徳とは、善い行いを何度も選ぶことによって、少しずつ自分の人格の中に育っていくもの。
そして、その善い選択をするために必要なのが、道徳的強さなのです。
だからこそ、あなたが今、
「もっと善く生きたい」
と思っているなら、それはとても大切なことです。
まだ完璧でなくてもいい。
弱さがあってもいい。
何度も失敗してもいい。
そのたびに、
「それでも、私はどういう人間でありたいのだろう?」
と自分に問い直す。
そして、もう一度、小さな善を選ぶ。
その一歩一歩が、あなた自身を少しずつ変えていくのです。
完全な善人も悪人もいない~大切なのは「どちらを選ぶか」
ここまで読んで、
「では、人間の本性は善なのでしょうか。それとも悪なのでしょうか?」
と思った人もいるかもしれません。
その答えの一つは、人間を単純に「善」か「悪」かに分けることはできないということです。
完全な悪人がいないように、完全な善人もいません。
どんな人の中にも、善い心と弱い心の両方があります。
人を助けたいと思う自分がいる一方で、自分だけ得をしたいと思うこともある。
人を許したいと思う一方で、いつまでも相手を恨んでしまうこともある。
正直でありたいと思う一方で、都合が悪くなると嘘をつきたくなることもある。
これは、特別に悪い人だけに起こることではありません。
私たち一人ひとりの中にある、人間らしい二面性なのです。
では、「人間は悪い生き物なのか」というと、そうとも言えません。
多くの人は、
「人に優しくなりたい」
「正しく生きたい」
「人を傷つけたくない」
「誠実な人になりたい」
と思っています。
つまり、人間の中には、明らかに善を求める心もあります。
ここが大切です。
人間は、最初から完全な善人ではありません。
しかし、だからといって悪人でもありません。
人間には、善にも悪にも向かう可能性があります。
そして、その中でどちらを選ぶかによって、自分自身が少しずつ形づくられていくのです。
「今すぐ楽になりたい」
という気持ちが出てきたとき、
「それでも、私はどういう人間でありたいのか?」
と考える。
この問いが、人間を成長させます。
ですから、弱い自分がいることを恥じる必要はありません。
大切なのは、弱さがあることではなく、弱さに人生を支配させないことです。
「善く生きたい」という思いは、何歳からでも育てられる
人生を長く生きていると、
「今さら自分を変えるなんて無理だ」
と思うことがあります。
「この性格はもう変わらない」
「今までずっとこうだった」
「自分は何度も失敗してきた」
「もっと若いときに変わっておけばよかった」
そんな思いが出てくることもあるでしょう。
しかし、アレンの言葉を考えると、別の見方ができます。
人間として成熟することに、年齢制限はありません。
今日、正直な選択をする。
今日、誰かに優しくする。
今日、言い訳を一つ減らす。
今日、自分の怒りにすぐ反応しない。
今日、誰かを責める前に、自分にできることを考える。
こうした小さな選択は、何歳になってもできます。
そして、それを繰り返していけば、自分の中に少しずつ新しい性質が育っていきます。
これが「徳」なのではないでしょうか。
徳とは、最初から完璧な人だけが持っているものではありません。
日々の小さな善い選択によって育っていくものです。
だから、
「自分には徳がない」
と嘆く必要はありません。
今日から一つ、正しいと思うことを選べばいい。
それを明日も一つ選ぶ。
また次の日も一つ選ぶ。
その積み重ねによって、少しずつ自分の人格が変わっていきます。
これは、「自分を無理やり作り変える」ということではありません。
むしろ、
「本当はこういう人間でありたい」
という自分の中の思いを、少しずつ現実にしていくことです。
アレンが、
「人に、善良な人間になれと教えるとき、私は、偏見に縛られない自立した強い人間になれと言います。」
と言っているのも、ここにつながります。
善良な人とは、何でも人の言うことを聞く人ではありません。
人から嫌われないようにする人でもありません。
誰にでも好かれる人でもありません。
自分で考え、自分の良心に従い、自分の行動に責任を持つ人です。
「みんながやっているから」
「世間ではそうするものだから」
「嫌われたくないから」
という理由だけで生きるのではなく、
「私は本当にこれを正しいと思っているだろうか?」
と自分に問いかける。
そして、必要なら勇気を出して違う道を選ぶ。
それが「自立した強い人間」ということなのだと思います。
善良になることは、自分を責めることではない
ここで、どうしても伝えておきたいことがあります。
「善く生きよう」とするとき、一番やってはいけないのは、自分を責め続けることです。
「また怒ってしまった」
「また嫉妬してしまった」
「また逃げてしまった」
「自分は本当にダメだ」
と、自分を責め続ける。
しかし、それでは心が疲れてしまいます。
大切なのは、
「自分にはこういう弱さがある」
と気づくことです。
そして、
「では、次はどうしてみようか?」
と考える。
これなら前に進めます。
たとえば、人に怒ってしまったなら、
「自分はなんて悪い人間なんだ」
で終わるのではなく、
「次に同じことが起きたら、すぐに返事をせず、一度深呼吸してみよう」
と決める。
失敗して言い訳してしまったなら、
「私はダメだ」
ではなく、
「次はまず、自分にできなかったことを一つ認めよう」
と考える。
善く生きるとは、完璧になることではありません。
間違えたときに、もう一度正しい方向へ戻ることです。
何度でも戻っていいのです。
「善は強い」という言葉を、自分へのエールにする
アレンは、
「それに対し、善は強く、力に満ちた勇敢なものなのです。」
と言っています。
この言葉を、自分への励ましとして受け取ってみてはどうでしょうか。
あなたの中に弱さがある。
それは、あなたが悪い人だからではありません。
人間だからです。
怒ることもある。
怖くなることもある。
逃げたくなることもある。
人をうらやましく思うこともある。
楽をしたくなることもある。
それでも、そのたびに、
「私は、本当はどういう人間でありたいのだろう?」
と問い直すことができます。
そして、
「今日は正直でいよう」
「今日は一つだけ親切にしよう」
「今日は人のせいにする前に、自分にできることを考えよう」
と、小さな一歩を選ぶ。
その一歩は、とても小さく見えるかもしれません。
でも、その小さな選択こそが、あなたの中にある「善」を育てています。
善は、最初から大きな力として現れるわけではありません。
小さな正しさを何度も選ぶことによって、少しずつ強くなっていくのです。
だから、今の自分に自信がなくても大丈夫です。
「自分はまだまだだ」と思っていても大丈夫です。
むしろ、
「もっと善く生きたい」
と思っていること自体が、大切な出発点なのです。
まとめ~弱い自分を知っている人こそ、強くなれる
ジェームズ・アレンは、
「人が真に神のようになるためには、まず人として成熟しなくてはなりません。」
と言っています。
人として成熟するとは、何でも完璧にできる人になることではありません。
自分の弱さを知ること。
自分の心をごまかさないこと。
間違いを認めること。
人のせいにしないこと。
恐れや欲望に流されそうになったとき、それでも善い方向を選ぶこと。
そうした一つ一つの選択によって、少しずつ自分を育てていくことです。
人間の中には、
「今すぐ楽になりたい自分」
と、
「本当はこういう人間でありたい自分」
がいます。
だから、完全な善人も、完全な悪人もいません。
人間の本性を単純に「善」か「悪」かに分けることもできません。
しかし、その二つの自分がいるからこそ、私たちは選ぶことができます。
「楽なほうへ流されるのか」
「それとも、本当にありたい自分のほうへ一歩進むのか」
その選択を支えるのが、道徳的強さです。
そして、道徳的強さによって善い行動を繰り返していくことで、正直さ、思いやり、勇気、誠実さといった「徳」が少しずつ自分の中に育っていきます。
だから、
「自分は弱いから、善く生きられない」
と考えなくてもいいのです。
弱さがあるからこそ、善を選ぶ意味があります。
怖いのに正直でいる。
腹が立っているのに、人を傷つけない。
逃げたいのに、やるべきことを一つやる。
自分が間違っていたら、「ごめんなさい」と言う。
人を責めたくなったら、自分にできることを考える。
こうした小さな選択が、あなたを少しずつ強くします。
そして、その強さがやがて「徳」となり、あなたの人格になります。
アレンの言葉は、私たちに「完璧な善人になれ」と言っているのではないのかもしれません。
そうではなく、
「自分の中にある善を信じて、それを毎日の生活の中で育てなさい」
と励ましているのではないでしょうか。
自分の弱さを知っている。
だからこそ、強くなれる。
自分の未熟さを知っている。
だからこそ、成熟していける。
そして、
「それでも善く生きたい」
と思える。
その思いがある限り、私たちは何歳になっても、自分の生き方を選び直すことができます。
今日からでも遅くありません。
大きなことをする必要もありません。
まずは一つだけ。
「本当はこういう人間でありたい」
と思う方向へ、小さな一歩を踏み出してみましょう。
その一歩が、あなたの中にある「善の強さ」を育てていくのです。